特定アジア?奇妙な造語
このところ日本ではメディアもブログもアジア問題で議論が過熱している。だが私はこうした傾向に疑問を感じている。日本は世界の200ヶ国と関係があり、アジア諸国はそれぞれその内の一つに過ぎない。中でも最近の造語「特定アジア」には言語的センスの悪さ以外の何物も感じられない。ともかく日本国民に言いたい。アジアに対する注目度が極端に大きくなっている最近の傾向は異常である。もっと世界をバランス良く見るべきである。
まず日本と世界の関係を再検討してみよう。日本にとって最も重要な同盟国がアメリカであることは誰も疑う余地がない。また日本が世界の政治経済を共に運営してゆく仲間はアメリカとヨーロッパである。間違っても中国や韓国ではないし、両国が世界のエグゼキュティブになれる見込みは全くない。そうした事実をしっかりと踏まえていれば、昨今の日本でアジア、特に中国と韓国に対して過剰な意識を抱くことがいかに奇異なことかわかる。物事には適正なバランスというものがある。中国と朝鮮半島への意識が過剰になれば、世界の全体像を見誤りかねず、ひいては日本の進路を誤りかねない。
考えてもみて欲しい。日本の最重要同盟国であるアメリカにとって重要なのは大西洋同盟の拡大・安定と中東の民主化である。それを基に大量破壊兵器の不拡散やテロとの戦いに取り組んでいる。ロシアや中国への対処は、ヨーロッパばかりか日本やオーストラリアまで含めた拡大大西洋同盟の充実が不可欠である。このようにアメリカの視点を基にして世界の中での日本を考えてゆかないと、適正なバランスで日本の進路を見定めることができない。アメリカと同じ視点でもっとヨーロッパや中東に目を向けるべきである。
日本とアジアの関係できわめて奇妙に感じるのは、日本人もアジア人も自分達を同じ東洋人だと信じていることである。だが両者は全く異質の文明圏であるという事実を忘れてはならない。以前の「文明の衝突:日本vsアジア」という記事でも指摘したように、日本とアジアは対馬海峡という文明圏の断層を隔てて向かい合っている。はっきり言えば、日本とアジアの関係は西欧とイスラムの関係と全く同じである。西欧が十字軍を派遣したように、日本も朝鮮出兵を行なった。西欧がトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍を撃退したように、日本も二度にわたる元寇を撃退した。
さらに忘れてはならないことは、アヘン戦争以前の中華皇帝は東アジア儒教文明圏の最高支配者として蛮族はことごとく中華帝国に屈することが当然と思っていた。これに対して敢然と叩頭の礼を拒んだのは日本と英国だけである。日本は聖徳太子が「日出る国の天子より日没する国の天子へ」という書簡を隋の皇帝へ宛てた。豊臣秀吉は「汝を日本国王に封ず」という明の国書に激怒した。イギリスも通商を求めて清の皇帝との交渉に臨んだマカートニー、そしてアマーストが皇帝への叩頭の礼を拒んだ。東アジアの歴史ではどちらもきわめて異例である。朝鮮、ベトナムなどは嬉々として中華皇帝の臣下に下っている。こうした事実からも、日本がアジアよりアングロ・サクソンとの関係が良くなるのは自然である。
そうした事実を踏まえれば、日本がアジア諸国に媚びへつらうように皮相的な「友好」を訴えるのは無意味である。
これほどまで日本とアジアが異質な世界だというのに、どうして「特定」なる形容詞を冠した造語を考え出すのか?おそらく、こうした造語を好む人の深層心理には日本人とアジア人が本来は同じ東洋人の同胞なのに、中国、韓国、北朝鮮ばかりが日本に敵対的であり続けることへの苛立ちがあるのだろう。だが日本とアジアは全く異質なのだから中国や朝鮮半島でなくても何かを契機に関係が悪化する危険を秘めていると思っておいた方がよい。それをわからずに「大東亜共栄圏」など作り上げようとすれば、失敗して当然である。日本は植民地帝国の抗争に参加しただけで、日本軍によるシンガポール陥落などはドイツ軍がスエズを陥落させることと本質的に変わらない。日本の右翼はこれを東洋人による白人植民地支配からの開放だと自画自賛しているが、馬鹿もほどほどにしろと言いたい。よって日本人はアジアに対するセンチメンタルな感情は一切捨て去るべきである。
以上より「特定」アジアなる造語には言語的センスが全く感じられない。それに比べてラムスフェルド米国防長官の「古いヨーロッパ」と「新しいヨーロッパ」という造語はまさに強烈なメッセージが込められている。だからこそ言おう。アジア、特に中国と朝鮮半島の重要性はもっとドライで合理的に査定されるべきである。奇妙な造語を濫用しては、彼らを過剰に意識していますと公言しているようなものだ。それこそ、この地域のナショナリスト達の思うつぼである。


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