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2011年10月12日

日米同盟の深化と平和国家は両立するか?

ここ数年、日本では毎年のように首相が代わっている。また、経済の不振と国際的地位の低下を憂慮する気運も漂っている。そうした頼りない政情に鑑みて、日本政界の御意見番として知られる中曽根康弘元首相が、9月15日放映のNHKニュースウォッチ9で大越健介キャスターのインタビューに応じ、日本の将来への指針を語った。インタビューの中で、中曽根氏は3・11地震を受けて災害に強い国造りを訴えるとともに、自由民主国家としてのソフト・パワーの重要性を訴えた。また首相の責務に耐えるための自己研鑽の必要性も説いた。そうしたインタビューの内容に私は感銘を受けたが、日米同盟の強化と平和国家を共に日本の基本的な指針としたことには矛盾を感じた。それは1991年の湾岸戦争で典型的に見られたように、憲法9条に基づく平和国家では日米のみならず国際社会とも安全保障での協力で矛盾を抱えることが明らかになったからである。

中曽根氏は日本が先の大戦でアジアの国々に迷惑をかけたことを忘れてはならないと力説した。確かに、太平洋戦争期の軍国主義への回帰は否定されるべきであるが、世界は過去への悔恨から抜け出せぬ日本を望んでいるのだろうか?安倍政権および麻生政権はNATOとの軍事協力の強化を模索し、我が国と同様にアメリカと緊密な同盟関係にある先進民主国家であるヨーロッパ諸国から歓迎された。また、中国の軍拡に脅えるアジアの民主主義諸国も、日本の軍事的役割の強化を歓迎している。冷戦終結後の世界が、テロとの戦い、中露の再台頭、そして核拡散の脅威に直面する中で、日本だけが戦後を引きずり、過去への悔恨に浸り続けるべきだろうか?

振り返って見れば、中曽根氏が政権を担った1980年代は、イラン革命とソ連軍のアフガニスタン侵攻によって中東情勢が日米同盟に大きな影響を及ぼし始めた時期である。アメリカはニクソン・ドクトリンを撤回せざるを得なくなり、それによって日本は安全保障でフリー・ライダーからの脱却が迫られるようになった。これは当ブログの以前の記事で述べたような「日米同盟グローバル化」の先駆けであった。こうした同盟のグローバル化に加えて多国間化を象徴するのが、RIMPACへの参加である。すでに前任の鈴木政権の時期に日本は太平洋諸国の合同海軍演習に参加していたが、その規模が拡大したのは中曽根政権からである。この演習には域内の自由主義陣営諸国のみならず、アジア太平洋圏外からイギリスまで参加している。ここまで大規模な国際軍事演習に参加したことが、後の小泉政権による自衛隊のイラク派兵につながっている。1980年代の防衛政策が後の日本に与えた影響は、これほど大きなものである。そうした業績に加え、中曽根氏は憲法改正論者でもある。にもかかわらず、平和国家を日本の基本的な立場としてしまえば、上記のような中曽根氏自らの業績と思想信念を否定するかのように聞こえてしまう。

日本にとって専守防衛の平和国家という足枷は、今なお重い。イラクではイギリス軍の指揮下で自衛隊は復興作業に当たったが、戦闘行為はできなかった。自衛隊が銃をとってテロリストを一人でも撃ち殺すことができたなら、共に作戦任務に従事したイギリス、オランダとも戦友としての一体感の醸成にもつながったであろう。何よりも、それはイラクの国民より歓迎されたであろう。そうなっていれば、国際社会での日本に対する信頼はもっと高まっていたであろう。現在、日本の本土への最も大きな脅威の一つとなっている北朝鮮の弾道ミサイルへの対処でも、専守防衛の原則に縛られるあまりにどの段階で迎撃するのかをめぐって神学論争になっている。

憲法9条には戦中の軍国主義からの脱却という歴史的な意義はあった。しかし戦後と今では国際情勢が変わったので、もはやその政治的な役割を終えてしまった。そもそも国防政策が憲法で規定されるものなのだろうか?国家の政策とは時の政権と議会のやり取りできまる。例えば経済政策において、自由市場を重視するか福祉国家を重視するかを憲法で規定することはあり得ない。憲法とは国家統治のあり方と人権の保護について規定するもので、個々の政策を決めるものではない。こうした観点からも平和国家は再考されねばならいと私は考える。

最後に平和国家の是非を考えるうえで、私は一つの仮説を唱えたい。それは最近のメディアや世論で政治家の質が劣化したとよく言われる。その原因は日本の政治家達が、政策としての戦争を長年にわたって考えることができなかったからではないか?戦争について何も考えられない政治家を本物の政治家とは思えない。アリストテレス、プラトン、孫子、孔子、からクラウゼビッツに至るまでの古今東西の賢人達は、戦争を国家にとって究極の政策課題と論じてきた。それを端的に示すのが、軍事技術が高度に専門化していなかった19世紀初頭までは、世界各地の君主達は自ら戦場に赴き、馬上から戦争の指揮を執っていたということである。戦争とはこれほどまでに国家の重要課題なのである。それについて何も考えることができない政治家に国家の命運を委ねられるだろうか?

戦争は強大な破壊力を伴い、その行使には高い見識と倫理感が求められる。この件を考えるうえで、私は江戸時代の武士について言及したい。彼らは支配階級として帯刀の特権が認められたが、刀の殺傷力が強大であるが故に巨大な力ゆえに百姓町人へむやみなやたら抜刀は抑えられた。武士同士でも同様である。彼らには自らの力に対する畏れがあった。政策としての戦争を考えることを放棄した政治家に、こうした「謙虚さと責任感」を期待できるだろうか? 

以上より、日本が過去への悔恨に浸る平和国家であり続けることには疑問を抱く。むしろ政策としての戦争をしっかり考え、未来志向の態度を示すことが日米同盟の深化にも国際社会での信頼の強化にもつながると思われる。

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