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2013年7月30日

イスラム過激派の脅威は欧米だけのものではない

今年の始めにイナメナスで起きたアルジェリア人質事件を思いおこして欲しい。モフタール・ベルモフタール指揮下のアル・カイダ関連組織は、現地の天然ガス合弁事業の従業員の内、アメリカ人とヨーロッパ人以上に数多くの日本人とアジア人を殺戮した。この事件はイスラム過激派がキリスト教徒とユダヤ教徒だけでなく、およそ全ての人々の敵であることを示す象徴的な出来事である。急進的イスラム主義者は普遍的に真の脅威は普遍的なのである。高校や大学の世界史の教科書では十字軍に典型的に見られるようなイスラム対西欧の衝突が中心に記されている。歴史を通じてイスラムと西欧の対決は頻繁に起こり、それもツール・ポワチエ間の戦い、イベリア半島のレコンキスタ、コンスタンチノープル陥落、ウィーン包囲と目白押しである。さらに19世紀の植民地主義によって反西欧感情がイスラム世界に広まることになった。

イスラムと西欧は長く厳しい紛争を続けてきたので、中東のムスリムはアメリカ人やヨーロッパ人を嫌うことはあっても日本人やアジア人を嫌うことはないと広く信じられている。イナメナスの虐殺を見ればこれが全くの間違いであることがわかる。ベルモフタールのような過激派から見れば、非ムスリムのよそ者などは到底理解し得ないカフィール(イスラム教徒から異教徒に対する蔑称)なのである。さらにコーランを文字通りに解釈すれば、日本人もアジア人も啓典の民ではないので、イスラム教徒にとってはユダヤ・キリスト教徒であるアメリカ人やヨーロッパ人よりもはるかに異教徒なのである。例えば多くの日本人がイスラム過激派から無惨に殺されているが、彼らはそうした日本人達がアメリカ人やヨーロッパ人と共に行動していたか、キリスト教と関わっていたかどうかなどお構いなしに襲いかかっている。その中でも最も注意を引く事件は、サダム・フセインの失脚からほどなくしてティクリート近郊で起こった日本人外交官銃撃事件で、奥克彦駐英参事官と井ノ上正盛駐イラク三等書記官が射殺された

イスラム過激派の脅威をさらに理解するために、東洋史についてふり返りたい。イスラムは西欧以外にも異教徒の文明と戦った。最も目を引くものはインドでの仏教の聖地への破壊行為である。一般にはバラモン教がインドの支配者と庶民の間でヒンズー教として再興したために仏教が衰退したと理解されている。7世紀のハルシャ・バルダナ帝の統治下で唐から仏僧の玄奘がインドに留学して仏教哲学とサンスクリット語を学んでいた頃には、仏教はすでに衰え始めていた。しかしインドの仏教を破壊してとどめを刺したのはイスラム過激派である

イスラム教徒のインド侵入が本格化するのは11世紀でガズナ朝の時代に当たり、それによってインド亜大陸のイスラム化と仏教文明に対する偶像破壊主義的な攻撃が行われるようになった。最も恐るべき攻撃はゴール朝の時代にムハマド・バクティヤール・ハルジーが仏教文明の最高峰とも言うべき僧院に対して行なった破壊行為で、玄奘が学んだナーランダ僧院は1193年、そしてヴィクラマシラ僧院は1203年に破壊された。中世初期の仏教理論によると、偶然にもそれはゴータマ・シッダルタの没後から1,500年を経過して末法の時代が始まる時期に当たる。末法思想では末法の世になると人々は仏陀の教えを尊びながらもそれに従うことはなくなり、やがては仏教の終焉と社会的無秩序がもたらされる。インドで仏教を破滅させ末法の世を現世にもたらしたのはイスラムの鉄拳だったのである。

不思議なことに、ヨーロッパの騎士達とは違ってアジアの王侯はインドでイスラム教徒に奪われたシッダルタの生誕地やその他の仏教の聖地を奪回しようとはほとんど思わなかった。これは仏教圏ではローマ・カトリック教会の教皇や東方正教会のビザンチン皇帝のように、宗教的な動機で多国籍軍を編成できるような指導者がいなかったことも一因である。しかし末法思想は東アジアの仏教諸国に広まり、それらの国々で仏教思想に大きな影響を与えた。

日本ではそうした影響は宗教だけでなく政治にも及んだ。武士が台頭したのは社会的秩序の崩壊に対する不安の広がりという背景があってである。平清盛や源頼朝といった武門の棟梁が天皇や公家から政権を奪取した時期に、インドではイスラム戦士達が自分たちの勢力を拡大していた。よって上記のような歴史的背景に鑑みて、イスラム過激派の脅威はアメリカ人とヨーロッパ人だけものだと矮小化することはあまりにも危険だと、ここで再び強調したい。ヨーロッパ人は十字軍で遠征したが、アジア人はやらなかっただけのことである。それだけのことで過激派イスラム教徒の危険性を矮小化できるものでもない。

そこで今度はイスラム過激派の危険性を現代の視点から延べたい。タリバンは2001年に行なった狂信的な偶像破壊によってバーミヤンの大仏を爆破したことで悪名高い。タリバン政権の駐パキスタン大使であったアブドゥル・サラーム・ザイーフ氏はグアンタナモで数年の拘留を終えた後、2010年にアメリカで“My Life with Taliban”と題する回顧録を出版した。彼の著書によると日本がスリランカの仏教団体を伴った公式の代表団を派遣し、タリバンによる大仏破壊の阻止を模索していた。日本代表団は日本人にとって仏教文明の祖先に当たるアフガニスタン人を尊敬しているとまで発言し、タリバン側には貴重な文化遺産の保全を要請した。

これに対してザイーフ氏は、日本代表団がアフガニスタン人を文化的祖先として敬うならイスラム教に改宗したらどうかと返答して冷たくあしらった(“Japan offered to hide Bamiyan statues, but Taliban asked Japan to convert to Islam instead”; Japan Today/AFP; February 27, 2010)。日本人はあまりにナイーブで、狂信的イスラム教徒がアメリカ人やヨーロッパ人を嫌うほどに日本人を嫌うことはないと信じがちである。 しかしタリバンやアル・カイダのような過激派にとってカフィールはカフィールに過ぎないのである。

他の宗教と文明に対するそれほどまでの非寛容に鑑みて、アメリカの保守派とインドの政策形成者達は良きタリバンなるものの存在にきわめて懐疑的である。インド人はパキスタンとタリバンの関係を強く警戒し、2008年のムンバイ・テロ事件にも今なお憤りを覚えている。それらと共に、イスラム教徒のインド亜大陸侵入という歴史的体験がイスラム過激派に対するインド人の態度に心理的な影響を与えていることも多いに考えられる。2010年にはインド国民会議派報道官(当時)のマニッシュ・テワリ下院議員が、タリバンが2人のシーク教徒を斬首するようでは「良きタリバン」の存在などとても信じられないと明言した(“There is no good Taliban: Congress”; Economic Times; February 23, 2010)。

オバマ政権からの要請にもかかわらず、インドはアフガニスタン和平交渉にタリバンを参加させてしまえば彼らが正当性を得ることになると懸念している。今年の6月にデリーでのジョン・ケリー国務長官との会談(“India's concerns over talks with Taliban won't be overlooked”; New Indian Express; 24 June, 2013)を経て、インドのサルマン・クルシード外相は7月初旬にブルネイで開催されたASEAN地域フォーラムの席上で、シン政権はインドとして譲れない一線が尊重されるならタリバンの和平交渉参加を受け入れると述べた(”In change of stance, India supports talks with Taliban”; Times of India; July 3, 2013)。その譲れない一線とは、アフガニスタンの主権を代表する正当な政府とは民主的に選ばれたカルザイ政権であってタリバンではないということである("India's redline for Afghanistan Taliban"; Frontliner India; June 23, 2013)。

しかしBJPをはじめ野党からはテロリストと話し合いの席に着くという考え方そのものが批判されている(“BJP cautions US against peace talks with Taliban.”; Indian Express; July 24, 2013)。明らかに、インド人はイスラム・テロの危険性に対してアメリカ人やヨーロッパ人以上に敏感になっている。ジョセフ・バイデン副大統領は最近のムンバイ訪問でインドの不安を宥めるために、タリバンはアル・カイダとの関係を絶たねばならないと明言した。しかしヘリテージ財団のリサ・カーティス上席研究員は、バイデン氏はアメリカが2014年のアフガニスタン撤退以後もタリバンとの秘密協定など結ばないと保証しなければならないと論評している(“Biden seeks to assure India on Afghanistan, presses on trade” Reuters; July 24, 2013)。

歴史と現代の国際政治情勢に鑑みて、我々はイスラム過激派の脅威はアメリカ人とヨーロッパ人だけものであると広く信じられている認識を改めねばならない。かつて私はテレビで日本のあるニュース・キャスターが、日本人が中東に行く際には旅も安全のためにもアメリカ人から離れておくべきだと発言したのを聞いたことがある。そうした問題意識の低い物言いはインド人なら一笑にふしてしまうであろうことは疑いの余地がない。インド人はイスラム過激派の恐怖について歴史的経験があり、それは民族の記憶にしっかり残り、しかも9・11テロ攻撃にも劣らぬ凄惨なものである。そうした宗教的狂信主義者は人種や国籍がどうあろうとカフィールに対しては無慈悲である。イナメナスの一件を忘れてはならないのである!

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2013年7月21日

モルシ政権の失政とトルコへの影響

エジプトのモハメド・モルシ大統領の失脚は民主的なイスラム主義を唱える者達にとっては大打撃である。アラブの春によって彼らは勢力を伸ばした。民主的なイスラム主義は取り立てて目新しいものでもなく、すでにトルコではAKP(公正発展党)がアラブの春よりはるか以前に政権の座に就いている。しかしエジプトのクーデターによってイスラム・ポピュリズムの勢いはそがれてしまった。特にトルコのAKPが訴えるイスラム主義に基づく民主主義は大きく信頼性を損ねてしまった。両国の動向は中東でのイスラム・ポピュリズムの凋落をもたらした。エジプトの反モルシ・クーデタートルコにが与える影響を検証しようとしているのは、それが大きな理由である。そこで二つの点について議論したい。第一にはモルシ政権がエジプトの統治に失敗したのはなぜか?第二にトルコやその他のイスラム民主主義を目指す国々にはどのような影響があるのだろうか?

モルシ氏は、1952年の革命よりナセル、サダト、ムバラク政権と長きにわたって続いた警察国家に終止符を打つことに成功した。しかしナショナル・ジャーナル誌のマイケル・ハーシュ主任特派員は「イスラム主義の政権与党はまたしても近代社会の中でいかに自らの生きる道を見つけるかという単純なテストに合格できなかった。グローバル経済が急速な市場統合、市場開放、そして経済学の基本原則の徹底を求めている時代にあって、現実よりもイデオロギーを優先させてしまった」と評している。イスラム主義者は選挙を勝ち抜きながら国家統治には失敗している。イラン国民が最も穏健なハッサン・ロウハニ師を選出したのも、シーア派神権体制が1979年以来イランの経済と国際的な立場を悪化させてしまったからである。他の過激派ではハマスもガザ地区の統治で困難に直面している。トルコでは経済が好調にもかかわらず、エルドアン政権は市民の抵抗に直面している(“After A Rapid Rise, A Challenge To Political Islam”; NPR News; July 6, 2013)。

ムスリム同胞団は選挙に勝ったかも知れないが政治のうえではアマチュアである。スタンフォード大学フーバー研究所のコーリー・シェイク研究員は、権威主義体制が崩壊した後の社会では統治能力のない集団が権力を握ることが多く、そうした集団には国民的な合意を形成する経験が殆どないと論じている(“American Freedom and Egypt's Coup”; Foreign Policy – Shadow Government; July 3, 2013)。カーネギー国際平和財団のネーサン・ブラウン上席研究員はさらに、モルシ政権は他の政党と連携できなかったと主張する。彼らは現実への対処よりもイデオロギーに固執し、潜在的に手を組める可能性のある相手と提携する機会を失ってしまった。ムスリム同胞団は、自らが主導的な立場の政治団体よりも支配的な立場の政党になろうという間違った決断をしてしまった。その結果、モルシ政権への信頼は失われ、エジプト国民から嫌悪されるまでになった。ムスリム同胞団は国家統治の経験が不足しているにもかかわらず、選挙に勝ったというだけで自信過剰になってしまった(“Where Does the Muslim Brotherhood Go From Here?”; New Republic; July 3, 2013)。ブラウン氏が述べるイスラム主義者への教訓は、2009年に「政権交代」を果たしながら国家統治には失敗した日本の民主党に対するものとどこか類似している。

遺憾ながらモルシ氏は民主主義の重要な要素ともいうべき協議と国民合意の形成を軽視してしまったために、選挙で選ばれた独裁者になってしまった。民主主義には人権、法の支配、国民の政治参加が必要で、選挙はそうした要素の一つに過ぎない(“When coups advance democracy”; New York Daily News; July 7, 2013)。アメリカン・エンタープライズ研究所のマイケル・ルービン常任研究員は、ムスリム同胞団はエジプトにとってのはしかだと評している。モルシ氏は宗教を押し付けるばかりで、エジプト国民にとって重要課題である経済の改善については何もしなかった。しかしムスリム同胞団の秘密組織はテロ行為を行なうには依然として充分な勢力を保っている。以下のビデオを参照されたい。



では第二の問題としてトルコへの影響を検証したい。2011年のモハメド・モルシ氏の政権就任以来、トルコのレセプ・タイイプ・エルドアン首相はエジプトと強固な関係を築いて「より民主的でイスラム志向の中東」というビジョンを広めようとした。クーデターによってトルコは域内で孤立するようになった。シリア内戦によってアサド政権との緊張は高まっている。また親アサド政権のイランとの関係も悪化している。クルド問題によってイラクとの関係も悪化している。さらにトルコ自身が戦後になって文民政権が機能しなくなるとクーデターを繰り返してきた(“Egypt’s coup is a serious blow to Turkey’s vision of a more democratic Middle East”; Financial Times; July 4, 2013)。

モルシ政権に対する軍部の反撃はトルコの内政にも重大な影響を与えている。トルコ政府はエジプトのクーデターを受けて、街頭での抵抗運動への取り締まりを強めている。トルコの司法当局もエジプト軍のクーデターによる人権侵害を国際裁判にかけるように要求している。しかし欧米諸国はモルシ政権の統治能力の低さを懸念するあまりにクーデターには曖昧な態度をとっている。トルコから見ればこれはダブル・スタンダードであり、トルコ国民の間ではモルシ政権の失脚が欧米による陰謀だとの見方さえ出てきている。そのためにトルコと欧米の関係は冷却化している(“Egypt coup rattles Turkey’s Erdogan”; Financial Times; July 11, 2013)。今やAKP政権下のトルコは欧米からも中東近隣諸国からも孤立している。事態はアフメト・ダウトール外相が描くアフロ・ユーラシア圏の中核というトルコとは反対の方向に動いている。

エジプトであれ、トルコであれ、中東の他の国であれ、イスラム主義者が抱えるパラドックスが見られる。それは国民の投票によって政権を掌握しながら民主主義を裏切ってしまうということである。エジプトとトルコが何度もクーデターに見まわれたのは、非軍事政権の統治能力不足のためである。クーデターによってエジプトは失敗した国家になる危機から救われたが、軍事クーデターに依存している限り真の民主主義と良好な統治に向けての進歩は阻まれる。

国際社会はそうした文民政権の失敗と軍事独裁という悪しき循環にたいしてどのように対応すべきだろうか?ブルッキングス研究所のロバート・ケーガン上席研究員は、軍部が選挙で選ばれた政府をいとも簡単に政権から引きずり降ろせるということは、真に永続的な権力は軍部が掌握していることを意味すると述べている。軍が民主的に選ばれた政府を一度でも引きずり降ろせるということは、別の政権が誕生してもまた引きずり降ろせることになる。そうしたサイクルに歯止めをかけるために、ケーガン氏はアメリカが暫定政権に対して早期の政権移譲を行うよう、援助の停止をも含めたメッセージを送るべきだと主張する(“Time to break out of a rut in Egypt”; Washington Post; July 6, 2013)。ケーガン氏の処方箋によって軍事政権の支配が終われば、アメリカと国際社会は主としてグラスルーツのエンパワーメントによって意識の高い政策論争を活発化させるなど、ソフトパワーの行使ができる。

エジプトと同様にトルコも戦後にクーデターを繰り返してきた。しかしトルコのAKPはエジプトのムスリム同胞団よりも国家統治の経験と能力がある。さらに経済の好況によって、イスラム・ポピュリズムを嫌う富裕なエスタブリッシュメントからもある程度の支持を得ている。イスラム主義が創立背景にありながら、エルドアン党首のAKPは自らがキリスト教民主党のようなヨーロッパの保守政党と同じ立場だと訴えようとしている。エルドアン内閣は街頭での市民の抵抗運動に強い姿勢で臨んでいるが、人権と法の支配に関してはEUのコペンハーゲン基準がAKPの過激化と人権侵害を抑えるであろう。それらのビルトイン・スタビライザーが機能せず、軍部が事態の不安定化を許容できなくなってくると、トルコも第二のエジプトとなってしまうだろう。そうした事態になれば、中東の民主化に向けたこれまでの取り組みが後退してしまう。これはテロとの戦いに大きなマイナスである。よって、アメリカと国際社会はカイロが円滑かつ迅速に民主主義に移行するように働きかけねばならない。

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