民主主義および人権の国際的普及とアメリカ大統領選挙
バラク・オバマ大統領がアメリカはもはや世界の警察官ではないと発言した時には、国際世論は当惑した。しかしもっと重要な問題はアメリカが世界への民主主義の普及に積極的に取り組むかどうかである。アメリカは今も民主主義の普及を外交政策上の必要命題としているという見方は広まっている。しかしカーネギー国際平和財団のトマス・カロザース氏はオバマ政権下において民主主義支援への援助の予算は28%も減額されていると指摘する。アメリカ国際開発庁は最も深刻な犠牲者で、これによって中東アフリカでのプロジェクトは大幅な縮小を余儀なくされた。このようになったのもアメリカ国民と政策形成者達が民主主義への援助に懐疑的になっているからである(“Why Is the United States Shortchanging Its Commitment to Democracy?”; Washington Post; December 22, 2014)。
国際舞台でのイラク戦争に対する激しい批判がアメリカ国民を孤立主義に追いやったことに疑問の余地はないが、それは9・11テロ攻撃に対する防衛的反応があれほどまでに厳しく非難されたからである。アラブの春の失敗によってアメリカは民主主義の普及にはさらに消極的になった。アラブの論客達はこの地域の腐敗と不安定化は欧米とシオニストによるものだとしているが、その多くは彼らの社会の中にある。社会経済格差と民族宗派のみならず、アラブ諸国は反アラブ主義のスローガンにもかかわらず統一に向かう気配はほとんどない。法の支配と政治参加も不充分である(“The Arab Winter”; Economist; January 9, 2016)。国際社会とアラブ世界でのそのような反応によって、オバマ大統領に世界の警察官から降りることを口にするようになった。それによってオバマ政権は自由な世界秩序を維持するというアメリカの特別な役割を放棄したとして、国際社会には悪い印象を抱かせることになった。
アメリカの同盟諸国は今回の選挙によってオバマ政権による超大国の責務放棄が覆されるように切望していた。しかし事態はむしろ逆になりかけている。民主党でも共和党でも孤立主義が台頭している。それはアメリカの長年の同盟国にとって失望すべきことである。忘れはならぬことは、民主主義の普及と同盟ネットワークは相互に絡み合って戦後のアメリカ外交政策の中核をなしてきたということである。ブルッキングス研究所のロバート・ケーガン氏は自著の『アメリカが作った素晴らしき世界』(The World America Made )で、この二つがどのように相互作用しているかを述べている。アメリカは常に同盟国を伴って戦争を戦っているが、ソ連と中国は事実上単独で戦ってきた。ベルリンの壁の崩壊からほどなくして旧ワルシャワ条約機構諸国はNATOに加盟した。旧ソ連構成共和国のウクライナとジョージアもこれに追従しようとしている。太平洋側ではフィリピンや旧敵国のベトナムまでの東南アジア諸国がアメリカのプレゼンスによる中国の脅威の排除を望んでいる。実際にはこの地域の国々はアメリカにも中国にも支配されたいとは思わず、ただ自国の独立を求めているだけにもかかわらず。
こうした国々がアメリカの覇権を受け入れているのは、アメリカには領土的欲望もなければ他国の主権を侵害する意図もないからである。また民主主義の価値観は国際舞台でのアメリカの指導力を強化する。ジョセフ・リーバーマン元上院議員とジョン・カイル元上院議員は「アメリカが指導力を発揮するためには自由の原則に基づいて安全保障と繁栄を相互一対で追求してゆかねばならない」との見解を詳細に述べている(“Why American leadership still matters”; AEI American Internationalism Project Report; December 3, 2015)。さらに両元議員ともアメリカの価値観の普及と国益の追求の関係を「人権と民主主義の理念への支援は単なる利他主義ではない。民主主義諸国はアメリカと戦争することもテロ支援に走ることもなく、難民を流出させることもない。民主主義の国であればアメリカと同盟関係になり、経済でもより良いパートナーになってくれる」と主張する(“The case for American internationalism”; Catalyst; January 20, 2016)。
しかし全ての候補者がこうした外交政策上の財産の重要性を理解しているわけではない。特に共和党のドナルド・トランプ氏はアメリカからのメキシコ人やイスラム教徒の締め出しばかりか、シリアと北朝鮮への非関与を主張する一方で、民主党のバーニー・サンダース氏はほとんど国内の社会経済格差にかかり切りである。今回の選挙での各候補の外交政策に触れてみたい(“Campaign 2016 --- Candidates & the World”; Council on Foreign Relations)。現在の候補者の間では、マルコ・ルビオ氏が全世界へのアメリカの価値観の普及に最も積極的である。ルビオ氏の外交政策での基本的な考え方は国際社会での特別な役割を強く意識するアメリカ特別主義であり、オバマ政権はアメリカを他の諸外国と同一化しようとしていると嘆いている(“Rubio: ‘Obama Wants America to Be Like the Rest of the World’”; MRC TV; January 28, 2016)。その結果「我が国は同盟国から信頼されなくなった。敵対国からも恐れられなくなった。そして世界はアメリカがどのような立場なのかわからなくなった」と主張する(“Rubio’s ad: “Our enemies don’t fear us’”; Hill; December 30, 2015)。そして中国からキューバにいたるまで専制体制に対する市民のエンパワーメントを支持している。他方で国内で厳しいテロ監視を維持するために自由法には反対票を投じた。
民主党のバーニー・サンダース氏と共和党のドナルド・トランプ氏は民主主義と人権の普及に不熱心どころか正反対の立場であり、両候補とも極端に内向きである。サンダース氏はほとんど国内格差と労働問題を中心に訴えているが、同盟国や友好国との多国間協力を重視している。国内での市民の自由に関しては、サンダース氏は保守派のリバータリアンと同様にテロに対する安全保障のための厳しい監視に反対している。最も問題がある候補者はドナルド・トランプ氏で、それは彼が孤立主義者だからである。この人物のイスラム教徒とメキシコ人に対する炎上発言からすれば、アメリカの価値観を信じているかどうかはきわめて疑わしい。核の三本柱や戦時国際法に関する発言に典型的に見られるように、とトランプ氏の外交政策に関する知識はきわめて貧弱である。トランプ氏の人権軽視は水責め拷問に関する見解で明らかになり、それに不快感を抱いたマイケル・ヘイドン元CIA長官は軍には正当な理由でトランプ氏の命令を拒否する場合もあり得ると言明した (“Former CIA director: Military may refuse to follow Trump’s orders if he becomes president”; Washington Post; February 28, 2016)。彼の外交政策に関する見解はグローバル経済と自由な世界秩序に対するブルーカラーの不信感に基づいている。トランプ氏は「アメリカが作った世界」など全く信じていない。よって民主的な同盟諸国も信用せず民主主義の普及にも関心はない(“Trump’s 19th Century Foreign Policy”; Politico; January 20, 2016)。それどころかキューバとの国交正常化をビジネス・チャンスととらえるような例外的な共和党候補者なのである。
その他の候補者では共和党のテッド・クルーズ氏とジョン・ケーシック氏から民主党のヒラリー・クリントン氏まで、国際主義と孤立主義の間の立場である。彼らは大なり小なりリアリストで、必ずしも民主主義の普及を強力に推し進めようとしているわけではない。クリントン氏はファースト・レディであった1995年に中国の一人っ子政策を批判したが、国務長官として推し進めたアジア転進政策は通商志向を強めていた。国内ではクリントン氏は移民に対してより「人道的」な処遇を主張し、ティー・パーティーのリバータリアンと同様の論拠から自由法を支持している。他方でクルーズ氏は微妙な立場にいる。中国やイランといった地政学的に敵対的な体制の国には人権問題で強硬な政策を主張しながら、「レジーム・チェンジ」についてはイラクおよびアフガニスタンのように長期で大規模な兵力駐留への怖れから否定的な見解である。国内ではクルーズ氏はリバータリアンを代表するランド・ポール氏とともに愛国法から自由法への更新によるテロに対する監視の緩和を働きかけた。これは小さな政府を信奉するティー・パーティーのリバータリアンと道徳主義的な福音派を支持基盤としていることも影響している。しかしクルーズ氏がネオコンとは相容れずアラブの民主化にも懐疑的なのは、それだけが理由ではない。
自らをレーガン後継者とするクルーズ氏の外交政策は、ジーン・カークパトリック氏に負うところが大きい。カークパトリック論文(“Dictatorship and Double Standards”; Commentary; November 1, 1979)に基づいて、クルーズ氏はシリアのバシャール・アル・アサド大統領のような好ましからざる独裁者とも共存を厭わず、道義的な介入による予測不能な混乱を避けようとしている(“Ted Cruz’s un-American ‘America First’ Strategy”; Foreign policy; December 16, 2015)。カークパトリック流ダブル・スタンダードはソ連への対抗のためにとられた。ネオコンや進歩的国際主義者とは違ってカークパトリック氏は文明の普遍的な進歩に懐疑的で、理想主義者よりもリアリストであった。しかしクルーズ氏はレーガンが常に彼女の助言に従ったわけではないことは、親米反共で知られたフィリピンのフェルディナンド・マルコス大統領が政権を追われた時の対応からも明らかなことを見落としている(“Ted Cruz's New Foreign Policy Isn't Conservative”; National Interest; August 1, 2014)。クルーズ氏が中国やイランのようなアメリカの戦略的競合相手とシリアやエジプトのようなアラブの好ましからざる専制国家との間でダブル・スタンダードをとっていることは、自由と人権の擁護者という世界の中でのアメリカの立場を低下させかねない。
外交政策での民主主義の普及は内政とも関連し合っている。この観点からドナルド・トランプ氏は最悪の候補者である。メディアに対する傲慢な態度、群衆の暴力を刺激する炎上発言、マイノリティーや女性や身体障碍者への侮辱での悪名には凄まじいものがある。トランプ氏が人権を訴えかけたところで世界はまず効く耳を持たない。普遍的な価値観の追求とその成果はアメリカ外交政策の財産である。国家安全保障の有識者達がトランプ氏の傲慢で無知な孤立主義を非難する公開書簡が、アメリカ国際主義の反撃の狼煙となることを望んでやまない。
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