ハリス候補の落選と国民統合へのリーダーシップ
先の大統領選挙におけるドナルド・トランプ氏の当選は、アメリカの右翼有権者による国際公民、特に同盟国の国民に対する平手打ちだった。多くの専門家や評論家が、選挙直後にカマラ・ハリス氏が落選した原因について思考を巡らせた。ここでは選挙の精緻な分析や目先のテクニックについてではなく、国民統合のための指導者のあるべき姿について語りたいと思う。それはハリス氏が国家安全保障や経済など国家の中核課題となる問題についてはオーソドックスな政策の候補者と見做されていたにもかかわらず、特定の有権者からの近視眼的な票獲得のためにDEI(多様性、公平性、包摂性)問題について語ることに多大な労力を費やした。実際のところ、ハリス氏はそれらの分野で主流派の政策専門家達の支持を得た。全米安全保障リーダー協会は国際安全保障でのアメリカの関与を維持するとともに、国内政治での反対勢力に対するトランプ氏の武力行使を阻止するために、元将軍や提督253人を含む1,049人の署名を掲げてハリス氏支持の公開書簡を掲示した(1)。またコロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ教授が、関税引き上げなどインフレを悪化させかねないトランプ氏の経済政策を阻止するために掲示したハリス氏支持の公開書簡に、存命のノーベル賞経済学者の大多数が署名した(2)。
もちろんアメリカの有権者の間で反主知主義が高まっていることに鑑みれば、権威ある専門家からの支持は当選の保証になるわけではない。しかしそのような知的正当性によって、ハリス氏には国民統合の候補者としてアジェンダを設定するための強い道徳的優位性が付与され、DEIを好んでとり上げたがる有権者に迎合して安易な票を集めるに走らずとも良かったかも知れない。また、知的正当性は、誤った情報にとらわれた労働者階級を目覚めさせ、アメリカ経済は悪くないという事実を知らせるのに役立ったかもしれない。バーニー・サンダース上院議員は、民主党は労働者階級の党に戻るべきだと主張した(3)。サンダース議員の考えは、ハリス陣営がトランプ氏のプロパガンダで完全に洗脳された労働者にアメリカ経済の事実を伝えていれば実現しただろう。実際に共和党を離脱した『アトランティック』誌のトム・ニコルズ氏は、バイデン政権は失業率とインフレ率を低く抑えたと述べている(4)。親トランプの『ウォールストリート・ジャーナル』紙でさえ、アメリカ経済が力強く成長していることを認めている(5)。ノーベル賞経済学者からの支持も、DEIの観点から有用であった。今年の受賞者3人の内の署名者2人は二重国籍のアメリカ人である。共にMITのサイモン・ジョンソン教授はイギリス国籍、ダロン・アセモグル教授はトルコ国籍も持っている。アセモグル氏はトルコでも少数派で、イスラム教国の中にあってキリスト教文明の民族となるアルメニア系出身である。そうした経済とDEI問題での事実に加え、シカゴ大学のジェームズ・ロビンソン教授を含む3人の受賞者は統治と経済発展に関する研究で受賞したので、ロシアさながらの寡頭政治が第1期政権の外交顧問だったフィオナ・ヒル氏から激しく批判されているトランプ氏にはそうした研究成果がじっくり効いてくることもあり得た(6)。
ハリス氏がトランプ氏のような「パンとサーカス」の選挙運動を展開した理由の一つには、アメリカの選挙産業が発達し過ぎていることが挙げられる。他には、これほど詳細な選挙分析が、多数の世論調査会社によって毎日メディアに提供される国はない。一方で、それはアメリカの民主主義の発展に寄与してきた。しかし他方で候補者は顧客を満足させるために市場調査分析に従うセールスマンのように、選挙専門家の近視眼的な戦術的アドバイスに従うようになる。このような消極的な態度は、必ずしも国家の指導者に相応しくない。指導者は、特定の不満を抱えた人々のグループに迎合せず、国民に国家に何が必要かを伝え、解決の方向性を示さなければならない。候補者は選挙参謀の言うことに耳を傾けなければならないが、彼らの助言に盲目的に従ってはならない。昨年7月のブログ記事で、京大出なのに無学な田舎者のように振舞う票の亡者について言及した(7)。彼に見られるように選挙のプロは視野が狭い見方に陥るが、候補者は俯瞰的な視点から国家の問題を解決するためのアジェンダを設定しなければならない。
アメリカ経済の現状に関する世間の誤解を払拭しようとするかのように、ジョー・バイデン大統領は12月10日にブルッキングス研究所で自身の成果を語り、翌日にはソーシャルメディアでその要点を述べた(8)。民主党は選挙運動期間にこうした国政の重要課題での実績をアピールすべきだった。まさにトランプ氏の当選阻止には遅きに失した。考えてみればハリス氏は狂気の右翼トランプ氏とは対照的に、まともな中道派として立候補したはずである。しかし選挙戦が進むにつれてハリス氏は近視眼的な得票のためにウォーク左翼の有権者に訴えかけたので、ただのDEIオタクとレッテルを貼られた。つまりハリス候補は「左のトランプ」になり、国民統合の指導者としての資質を全く示せなかったのだ。ブルッキングス研究所でのバイデン氏の任期総括演説は、トランプ氏が2期目の初めを好調な経済で引き継ぐことを改めて思い起こさせるものだった。バイデン氏は1月の退任を控えているためか今後のことについては触れず、自身の経済政策と結果について語っただけだった。それでも、彼が国民に示した経済の全体像は国民に事実を認識させるうえで意味があった。
冒頭で述べたように本稿は選挙の分析ではなく、リーダーの在り方についての議論である。とはいえ選挙後の分析についても言及する必要がある。先の大統領選挙では予想外のことがいくつかあったため、選挙予測で知られるアメリカン大学のアラン・リクトマン教授は正しい予測をすることができなかった。リクトマン氏は大統領選挙の歴史から得た予測モデルに基づき、バイデン氏には経済と外交政策で失敗もなく現職で、しかも第三党候補が弱い状況下ではトランプ氏より有利であるとコメントした(9)。6月27日のテレビ討論会での弁論が不調ではあったものの、リクトマン教授はバイデンには選挙に勝つための「鍵」と名付けた要件13の内8つ以上を満たしているので選挙戦から撤退するなと主張した。特に経済は現状に不満な有権者が酷いと主張しようとも、好調であった(10)。ボストン・カレッジのヘザー・コックス・リチャードソン教授も7月7日のCNNのインタビューで、民主党が選挙の途中で野党に対抗して候補者を変更するのは間違いであり、それは選挙運動が当初の党の候補者のために組織されていりばかりか、党内の混乱が世間の注目を集めてしまうからだと述べた。実際、1968年にリンドン・ジョンソンが選挙から撤退した時に民主党の選挙運動は混乱に陥って敗北した(11)。
バイデン氏が選挙戦を続けていればトランプ氏に勝てたかどうかは、知る由もない。しかし、民主党はテレビ討論会での不利な印象に動揺して近視眼的思考に陥った。そのため彼らの性急な候補者変更と選挙戦術は、民主党政権が失政であったかのような印象を有権者に与えてしまった。またハリス氏にはバイデン氏が持つ強みがない一方で、いくつかの弱点があった。選挙後まもなく、アラン・リクトマン氏は、外国人嫌悪、女性蔑視、情報工作がトランプ氏の当選につながったと結論付けた(12)。特にイーロン・マスク氏は数え切れないほどのプロパガンダを通じて経済について有権者に誤った情報を与え、不法移民に対する憎悪を煽り、エスタブリッシュメントと「旧来のメディア」に見られる「ウォーク性」を非難した (13)。それにもかかわらず、近視眼的にDEIの問題に争点を絞ったハリス陣営はマスク氏による扇動の餌食になった。さらに、ハリス氏には労働者階級の支持基盤というバイデン氏の利点がなかった。バイデン氏が選挙から撤退してもUAWは依然として支持を貫き通し、直ちにハリス氏に鞍替えはとはならなかった(14)(15)。
非常に興味深いことに、共和党は財界寄りの政党なので経済運営が得意だという迷信が米国民の間に広まっている。それはノーベル賞経済学者達がトランプ氏の政策によるインフレ加速の懸念からハリス氏をこぞって支持したことから、きっぱり否定されるべき代物である。しかし、マスク氏は従来から大衆に広まっている誤解を情報工作に利用した。また、ケンブリッジ大学のロベルト・フォア氏とカーネギー国際平和財団のレイチェル・クラインフェルド氏が『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌への共同投稿で主張しているように、ポピュリストの経済政策は企業に有利と想定されているにもかかわらず、政治的な危険を伴う。そうしたポピュリスト達は市場経済志向とは言えない。彼らが減税などの経済的インセンティブを掲げても、それは緊縮財政とは結びついていない。だが彼らは権力にしがみつきたいだけなので、イデオロギーの一貫性など気にしない。それどころか彼らと既存の政府機関との敵対関係によって、国の政策決定プロセスが破壊されてしまう(16)。ノーベル賞経済学者がこぞって、トランプ氏の経済政策に強く反対するのも不思議ではない。
もしハリス氏が国家の中核課題でアジェンダを設定にしていれば、トランプ氏よりも指導者としての資質に優るとアピールできただろう。実際にハリス氏は9月のテレビ討論会で勝利した。トランプ氏はハイチ移民を「犬や猫を食べる連中」呼ばわりして厳しく非難された。さらに、彼の嘘は多くの専門家やメディアによってファクト・チェックされた(17)。それにもかかわらず、ハリス氏はDEIの問題を過度に取り上げて近視眼的な票獲得を追求した。しかしアメリカでは19世紀に南欧と東欧からの移民がWASPに溶け込んだ例に見られるように、マイノリティが順応してきた歴史がある。同様に現在の英米文化圏では、インド系が共和党予備選候補のニッキー・ヘイリー氏、イギリスのリシ・スナク元首相、アイルランドのレオ・バラッカー元首相などを輩出し、社会の中で重要な地位を占めつつある。ハリス氏自身もインド系である。インド系の人々の中には白人右翼と同調する者もいる。イギリス保守党のスエラ・ブレイバーマン下院議員は悪名高い例だ。第2次トランプ政権は、FBI長官にカシュ・パテル氏、マスク氏とともにDOGEの共同最高指導者にビベック・ラムスワミ氏といったインド系を任命している。今やマイノリティには白人右翼以上に冷酷な過激派がいることを忘れてはならない。ハリス氏はバラク・オバマ元大統領の助言に従ったのかもしれないが、DEIをあまりに重視して中間層の有権者には中道派ではなく急進左派だという印象を与えてしまった。
文中で何度か述べたように、この記事は選挙戦術に関するものではない。また全ての有権者が国政をカントリー・ファーストの視点から考えるだけの充分な教育と高度な訓練を受けているわけではないため、選挙の候補者が誰であれ常に高尚な政策理念ばかり話せばよいわけではないことも理解している。ライバルに勝つために、候補者は必要に迫られて票の亡者となることもあろう。しかし、民主党の前任者であるヒラリー・クリントン氏とジョー・バイデン氏が、ハリス氏ほど安直な票稼ぎ目的の争点に終始しなかったことを忘れてはならない。ポピュリスト時代に真に国家の指導者たるにはどうすべきかを考えるうえで、ハリス氏がトランプ氏のような低俗リアリティ・ショー上がりの扇動者を止められなかった理由から学ぶべきことは非常に多くある。そして、アメリカ以外の国はどのようにしてミニ・トランプの出現を止められるだろうか?何よりも、指導者が目先の有権者動向に過剰反応すべきかを問い直す必要がある。
脚注:
(1) "NSL4A Endorses Kamala Harris for President of the United States"; National Security Leaders for America; November 4, 2024
(2) "23 Nobel economists sign letter saying Harris agenda vastly better for US economy"
(3) Twitter; Bernie Sanders @BernieSanders; November 7, 2024
(4) Twitter; Tom Nichols @RadioFreeTom; November 6, 2024
(5) Twitter; Herbie Ziskend @HerbieZiskend46; October 31, 2024
(6) "‘Everything Is Subservient to the Big Guy’: Fiona Hill on Trump and America’s Emerging Oligarchy"; Politico; October 28, 2024
(7) "Democracy in Africa and Western countermeasures against Russian penetration"; Global American Discourse; July 10, 2023
(8) "Biden looks back at his economic record in speech at Brookings Institution"; PBS News; December 10, 2024
Twitter; The White House @WhiteHouse; December 11, 2024
(9) "Historian who predicted 9 of the last 10 election results says Democrats shouldn't drop Joe Biden"; USA Today; June 30, 2024
(10) "Why Joe Biden Should Stay in the Race"; Harvard Griffin GSAS News; July 3, 2024
(11) Twitter; Christiane Amanpour @amanpour; July 7, 2024
(12) "What... Happened... | Lichtman Live #87"; YouTube; November 8, 2024
(13) "The Misinformation Take Over | Lichtman Live #88"; YouTube; November 13, 2024
(14) "UAW president: ‘We’re not going to rush’ Harris endorsement"; Hill; July 23, 2024
(15) "UAW endorses Harris, giving her blue-collar firepower in industrial states"; AP News; August 1, 2024
(16) "When Populists Rise, Economies Usually Fall"; Harvard Business Review; October 10, 2024
(17) "Six highlights from Harris-Trump debate"; BBC News; 11 September, 2024
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